笛作り三十年

第7回

私は笛作りを
止めていたかもしれない。

 三十年間の最大の苦難は、昭和五年前後であった。笛を作ったって生活はなり立たない。前にも書いたように、私は楽譜の版下を書いていた。当時ビクター出版社なるものがあって、経営者は三省堂生え抜きの小川氏で、その出版物の豪華な事は今日なお及ぶものがない位だが、その小川氏から或る時、何か楽界に役立つ、そして日本でまだ手をつけない仕事をとの相談を受けたので、言下にメトロノーム作製を薦めた。そして、或る紙卸商と小川氏がタイアップして私が協力進行係と云う役を引き受けた。ところが準備半ばに小川氏と紙商との間に何か問題が起きて紙屋さん手を引いてしまった。出版屋小川氏はお手のものでどんどん広告、既に数多くの予約注文を受けているので、製品の完成を急ぐ協力者の筈の私が主体になって取り組まねばならない立場に追込まれた。メトロノームは手で作る部分はほとんどない。パーツ半分揃ったところで資本中絶したのだからまとめようがない。メトロノームがカチカチ動き出すまでの苦労は尋常一様なものではなかった。しかしメトロノームが音楽上重要なものであることは、ハンス・フォン・ビューローの言葉をかりる迄もなく音楽の根本なものであり、正確なリズムは是非必要なものと考えていたので協力を惜しまなかった。

さて十個のメトロノームを前に並べて動かせてみると、或る一定の速度の位置で同じ速度の運動をさせることは時計の調整程度の容易さだが、何れの速度の位置でも十個が同じに運動するようにすることは実に至難な事だった。寝ても覚めてもカチカチばかり気になる。夜更けて遠く走る電車のリズムが65、朝は隣のカミさんがポンプ井戸を汲む音が90、寝坊した朝は15も早い。道路上でも一人々々の歩調が気になる。何と世間にはリズムの多い事か。世の中はリズムばかりで出来上がっている。そんな気もした。
 リズムに悩まされたせいか、電気、ガス代も不払いで停止されたほどの苦しい生活だったから、その為かも知れないが遂に極度の神経衰弱になった。その痛手は笛作りを断念させるところまで行詰まらせた。笛を作ったって肉体と精神をすりへらすだけだ。威勢よく止めちまえ、そうした決心をした。

 当時、小杉愛子という楽友があった。彼女は女学校から津田英学塾に入って寮生活をするようになってピアノが思うように弾けないので、フリュートを始めたのだが、その時からの交友で、丁度と津田を卒えて東北帝大へ入る僅かな期間、中野の女学校で英語の先生をしていた。それで毎日昼になると私の住居へ来て食事を済ませて行く。私が笛作りを断念した事を知った彼女は、どうしても私に笛作りを継続させようとした。「現在笛を吹いている人の為にも、これから笛を吹こうとする人達の為にも普遍的な愛情をもって笛を作ってくれ」と云うのだ。そればかりでなく、彼女は欧州へ留学する計画があったが、父は充分な小遣を送る筈がないからと、母が密かにヘソクリを貯めていた。その金を提供するから経済面の問題はそれで解決をつけてくれと云うのだ。私は勿論金は断ったが、笛作りを続けることにした。

 あぶないあぶない、其時に私は笛作りを止めていたかも知れない。今日私が笛を作っている陰にはこんな人もあったことを諸君に知ってもらいたい。