笛作り三十年

第6回

村松のところへ行けば
なんでも解決出来るようにしなくてはならない。
それが任務である。

 三十五から四十歳までの五ヶ年を鷺ノ宮(東京都中野区)で暮した。この間は、比較的呑気な生活をした。毎月フリュートを三本作ることに制限し、朝、太陽が昇ると同時に仕事を始め、日没に仕事を止め、雨天以外は日暮れの武蔵野を数時間自転車でかけ巡った。三本の笛はいくら念入りに作っても半月で完成した。

 その頃の私の生活費は、家賃を含めて七十五円。一本の笛が平均八十円であったから、一本を生活費に充て、他の二本を材料工具と研究費に充てた。音楽を聴く時間も絵を描く暇も友達との交遊も出来、作品が向上したのもこの時だった。

 それでも、私にこういうことを云った友があった。「君は、フリュートを人に安く与え過ぎる。それは一面、自分の仕事に不忠実になる。君は、フリュートに関する全ての楽譜も楽書もレコードも揃えなくてはならない。科学的実験設備も整え、村松のところへ行けば何でも解決出来るようにしなくてはならない。それが任務である。その費用を一本ずつの笛から受け取ることは暴利ではなく、君の為すべき義務である。」と。その人は、父に上野音楽学校(東京芸大音楽学部)の初代校長上原六四郎をもつ上原群一郎氏であった。
 氏は、専売特許局の化学部門を担当していた。そしてフリュートを愛し、邦楽に造詣深く、スキーの名手であった。冬に氏の家を訪れると、玄関には家族全員のスキーが立っていた。氏のスキー指導は、先ず自作映画から始めた。けれど、私にはとうとう教えてくれなかった。私の山好きを知っていた氏は、私がスキーを覚えて冬山の良さを知ることは危険だと云った。「日本の恩給をもらったから満州の恩給をもらいに行く−−いや、満州で思う存分滑ってくる」と云って、家族揃って満州へ行かれた。大戦終了後、丸ビルで特許事務所を開かれたが間もなく他界された。私にとって再び得難い人を失った事を惜しむ。私は、今日尚、上原氏の忠言を実行できないでいるけれど忘れたことはない。

 今年こそは氏の言葉の実現に取りかかる計画を立てている。私は、今まではフリュートを多く作ること、フリュートを吹く人を多く作ること、それがフリュート音楽の発展の基礎となり、落ち着いて良いフリュートの作製に従事することを可能とする基礎を作り出すものと信じてきた。