笛作り三十年

第2回

他に生活の手段を考えて、
笛はどこまでも道楽で
つくらなければならなかった。

 その当時、フリュートを造っても、それで生活をたてることなど夢にも考えられなかった。フリュートが完成しても、日本国内で三年目に一本のフリュートが売れるか、五年目に一人のフリュート吹きが出るか、想像もつかない時であった。陸海軍軍楽隊と宮内省と今の芸大、それから民間にフリュートを吹く人があったとしても、その数は数十人位のものと思う。世間にはフリュートの音を知っている人も皆無であった。フリュートの低音Cが満足に出る楽器もなかった。岡村雅雄氏が米国から帰ってフリュートを吹いたのを聞いて、Cの音が聞こえたといって騒いだものだ。その岡村氏も別の目的で米国に勉強中、日本人居留民団のブラスバンドに加わって笛を吹いていたので専門家ではなかったのだが、俄然日本一のフリュート吹きになってしまった。岡村氏が日本のフリュート界に貢献した功績は素晴らしいものだが、その当時のフリュート界は、このように心細い状態であった。
 私が笛を作るといっても他に生活の手段を考えて、笛はどこまでも道楽で作らなければならなかった。四月にスタートして五ヶ月目に、東京は大震災に遭って灰になってしまったので、仕事を一時中止して山に入った。陣馬山頂の山小屋で工作方面の本を読むことと、絵を描くことに明け暮れた三ヶ月は、楽しいものであった。一寸贅沢なように聞こえるけれど、実は震災当日、郵便局へ貯金を引き出しに行ったのだが、土曜日正午近くで混雑していた為、あきらめての帰途、グラグラと来たので無一物、貯金は当分封鎖、または少額払戻しなので、友人から金五十円を借用、山入りをしたのだ。この山の三ヶ月の生活は、私に再起の力を与えてくれた。

東京へ引返した時は、工場地帯にはバラックの家が立ち並び、機械が廻り出していた。私の仕事は、先ず笛の部分品をどんな設備で、どんな手段で作るかを確立しなければならなかったので、毎日弁当を下げて工場街を歩き廻って作業を盗み見しなければならなかった。長い時間、窓の外からのぞき見していると、しまいにはツバをはきかえられるのが落ちであった。帰り途に機械屋へ廻って同じような機械を入手、自宅に据付けて、いざベルトを掛けて廻してみても、一時間か二時間のぞき見しただければ物にならない。又出かけていって見ると、その時は別な仕事をしていたりするので、他の工場をのぞき廻る。この窓のぞきは、何年か続いた。