笛作り三十年

第8回

笛作りの動機は「失恋」だった。

 比田井君(日本フルートクラブ)から月報に何か書けと云われたが、私は元々自分の文章を人に読んでもらう為に書こうなどと心がけたことがないので、一度断ったのだが、「ナーニ、いつも飲みながら話すはなしを書けばいいのだ」と承知してくれない。それで引き受けたものの、飲みながらの話なら何時間でも続くけれど、文字に表現する以上責任もあるし、少なくとも相手が酔っていない筈なので、甚だ具合が悪い。それでも既に八回に亘ってとりとめのない事を書き続けた。原稿〆切にはいつもやいのやいのの催促、時にはお使いの人を待たせて書く始末。その都度皆さんの配本が遅れた事もあったと思う。真に相済まないことだが、私の今の生活には一週間に五時間だけ手紙を書いたり、筆を持つ時間があるだけで、一週間に集った手紙の返事を五時間で書ききれない分は、又一週間延びてしまう状態。それかと云って手紙ばかり書いていたら、他の面でそれ以上の相済まぬことが起きるのは明らかなのだ。そこで、さかんに返電を打つ事にしている。年末には、電報局から「毎度ご利用下さいまして」と挨拶状が来る始末。税務署から税務調査に来て電報の複写帳を見てあきれ返っている。
 さて毎号、前後もなくとりとめのない事ばかり書いていますが、こんな調子だとまだまだ何十回か続きそう。

 「笛作りになった動機」をよく問われるけれど、根本的なものは「失恋」であった。それは少年の頃の深いコバルト色の恋ではあったが、私は色々な事を考えた。一人の少女を愛して失敗した。私は「ヨシ、明日から日本中の人間全部を恋人にしてみせる」、恋人を愛した愛−−その愛の強さをもって人間全体を愛そう。自分がもしそれに徹底出来たら必ず全ての人を恋人とする事が可能だと信じた。勿論その時、その考えはフリュートとは結びついてはいなかったが、後にフリュート作製を志した時には、はっきりと目標はそこに置いた。人々の人世を楽しく、美しくする事に協力しよう。そんな考えからスタートした。苦笑しないでくれ。今日何も実績はあがっていないけれど、目標だけはそこにあった。そして今日なお失恋の味を忘れていない。