笛作り三十年

最終回

借金は
すべきものなりと考えた。

 吾が一党十人(男七人、女三人)が日管旧工場に立て籠って笛作りを始めた頃は、北支でパンパンという音がして既に大東亜戦争への導火線に火がついていた。工場という工場の端くれ迄威勢をつける為にブラスバンドの練習を始めた。紀元二千六百年といい、南京陥落といい、都大路はブラスバンドと鼓笛隊の行進で埋まった。戦争は南方へ延びて行った。東洋は東洋人の手で−−そんな言葉は今は忘れたけれど勇ましい限りであった。

 笛は、作っても作っても足りない。月産七、八十本は何処へともなく吸い取られて行った。ところが、日管へ笛を渡すと、一本について五円也のマイナスになる。日管へ渡す笛が多ければ多い程、私の損失が増えるのだ。値上げを要求しても応じない。しかし不思議な事に、日管は、私の支払う工賃材料代等は、いくらでも引き受けてくれる。一年間に私の赤字は一万二千円となった。その時分男一匹が、一万円借金出来れば一人前といわれた。その翌年も又一万二千円の借金が増えた。事務員は心配を始めた。友人は、日管が金で私を買収しようとしているのだと注意してくれた。私はこれで男二人前になったと、喜んでばかりもいられない。この不合理を解消する最後の手段として、工員と設備一切を日管の手に任せた。そして笛一本毎に十円の配当を受ける約束をした。毎月配当を受取りに行くと七、八百円の金が入るが、会社の帳面には、私名義の立替金が二万数千円記入されているので、配当金の半額をその穴埋めに会社へ渡せと言う。それでも私のフトコロに三百五十円入るので承知した。
 日管に貸した設備は私が笛作りを始めた当時に考案したものだったから改良の余地が多かったので、私は自宅で新しい機械を作り始めた。日管がどういう考えで私に借金を背負わせたか知らないが、その結果は、毎月私に三百円也を支払うことになった。会社の帳簿面に私の立替金が消えるまでは、これが続く筈なのだ。私は、借金はすべきものなりと考えた。もっと多くの借金をして置いたら、一生涯この配当を受けられると、虫の良い事を考えた。

 ところが、三月九日の東京大空襲で全部が灰になった。設備のことも借金のこともあっさり消え去った。
 私の自宅には、新しい設備が一通り完成されていた。