笛作り三十年

第10回

笛が売れたことを
喜ぶべきか、悲しむべきか。

 十字屋からの註文の笛を作っていた頃、神田の楽器輸入商Kが、フランスから安い笛を輸入して売り出した。市価は二百三十円であったが、村松の笛が五十五円で買えるので相当ダゲキだったらしい。Kは私の笛の悪口を振り撒いたものだ。勿論その当時の私の笛はそれより劣っていた事は認めるけれど、その笛が二百円になり、百八十円になり、百六十円まで値下げされた。その笛を買った者まで一緒になって和製の笛の悪口を云うのだ。私が笛を売り出した為に、舶来の笛が七十円も安く買えるようになった事には気が付かない。私は、舶来の笛が安く皆の手に入るようになった事に間接に役立った事をよろこんでいた。

十字屋の店で私の笛はよく売れた。あんな笛がよく売れたことを喜ぶべきか、悲しむべきか、今考えると恥かしく、買った人には相済まなく思うけれど、それが今日フリュートの盛んになった基礎となった事だけは認めてもらいたい。お陰で私も一人前の笛作りになった。掴んだ金は全部設備に支払った。そして私は相変わらず乞食のような姿をして十字屋の店に現れたものだ。小僧が「村松工場の主人はどんな人?」とよく尋ねた。「うん、立派な人だよ」「僕、見たことないナ」「こんな店に来るものか」
 ある時、十字屋の主人が店員も笛を持つことぐらい、音を出すことぐらい出来なくては困るから、夜八時過ぎに来て教えてくれというのだ。乞食先生、一週二回程出かけて一番大きな試聴室で練習を始めた。
「ナーンダ、君が主人じゃないか」
十字屋の主人はさすが老舗の風格を備えていた。私が三十年の間に接した楽器商の内、只二人尊敬に値する人があった。それは、十字屋の主人と大阪のソハマ楽器店の主人であった。その当時が、日本のフリュート界の揺籃時代であった。